本心の価値基準

じゃあ、逆に日本社会の序列から離れて海外にいたときはどうだったのだろう。

 

正直にいうと、「日本社会の評価基準」から離れた特権的な立場にいるという事、それ自体がとても開放感のある「自由」な状態だったと思う。自分も含めて皆んなその序列のシステムの中で苦しんでいたので、そのシステムが海外にいる限り、もう自分を評価する事ができないという圧倒的な安心感や優越感(それと同時に、社会から外れて孤立したという不安)。

 

実際の行動では、多分、外的な要因による行動が薄くなって、もっと自分の内因的な行動が増した気がする。

 

時間で言うと、朝起きる時間、夜寝る時間、1日をどう使うかは(多少外的要因も有りつつも)完全に自分のコントロール下にあった。

 

見た目にしても、社会的にどう見えるかいう事よりも、自分自身で1番よく思える体型や見た目を目指してした。どう見られるかって言うよりも、どう見せるか。

 

行く場所も、この年齢の独身の自分がこの場所に行くのは変では無いかとか、華やかな繁華街に行って序列を強く感じて嫌な気持ちになるとか、服装は人から揶揄されないかとかなんて考えてなくて、日曜日だから華やかな場所に行きたいとか、食べたいものがあるからあの場所に行くとかっていうのを素直に出来ていた。

 

勉強にしても、社会から求められるからというよりも、自分自身の目標を達成して能力を得たいという、もっと自分自身との対話で決めていた。

 

人との関係も、嫌いなら連絡しないし、相手の立場とか序列なんて一切関係なく、性格的に合う合わないで決められていた。元々来た時はゼロの外国人だから、最悪ゼロに戻れば良いという人間関係のしがらみのなさ。

 

これは海外という特殊環境のせいもあるけれど、もっと自分の喜怒哀楽に正直に生きていて感情を解放できていた、それでいて毎日が崩壊しないでいた。嬉しいことは余計な事を考えずに本当に嬉しがれたし、怒りももっと自分の中で消化出来ていた、悲しければ泣けたし、楽しければ本当に楽しめたと思う。

 

だめだ、色々考えてみたけど解決策なんてやっぱり出てこない。日本にいながら、外国人のように治外法権的に日本社会から離れた立場で生きれたら良いのに。