日本社会に戻る事のストレス

何故、日本に戻って以前のような生活を始めたら、また昔のようにジワジワと真綿で締められるような、継続的で解決策のない息苦しさを感じるのか改めて考えてみた。

日本で仕事をして、暮らすとどうしても「世の中から期待される理想像」っていうのがある。例えば、会社の同僚関係でもそうだし、年齢相応の行動だったり発言、年収や家庭、住む場所もそう。

そういうのを一切気にしない人ならストレスはないと思うけど、そんなの無理。やっぱり、「◯◯歳の平均象はこれ」っていうのはあって、社会に所属するってことは、そういう基準のなかで生きる事だと思うから。会社で好き勝手に自分の思った事喋るわけには行かないし、決まった時間に決まった事をしなくてはならない。外を歩くなら(近所以外)ある程度、人から見ておかしくない格好を意識するし、100%どう見られてもいいとは思えない。年相応の経験や財産は欲しいし、所属する社会の中で有利な位置にいたいというのは必然だと思う、そうしていなければ集団の中で不利益を被むるのだから。

海外で暮らすということは、そういう社会からの期待みたいな不自由さから完全に離脱する事だと思う。もちろん、どんな国にも同じような社会的なストレスはあると思うけど、外国人はどこまで行っても外国人だから一種の治外法権というか、そうしたストレスからは免除されると思う。これは相手から見て「あいつは外国人だから、自分たちとは違う」っていうのもあるけど、それよりも大きいのは自分自身が「私は外国人である」と思う事で、そこに存在しているはずの社会的なプレッシャーを感じずに住むというのが大きいと思う。「◯◯歳の変わった外国人」で別に良いというか、どう思われても別に関係ないって思える。

今、日本にいて海外生活の時みたいに生きるにはどうしたら良いのだろう。日本社会に所属しながらも、周りに溢れる「基準、標準、人の目」を無視して、自分の考えに基づいて自分の行動を「自分基準」でコントロールする。これって、海外生活のように外的な環境が無いと無理に思える。。。

よく、人の目なんて気にしないって言う人がいるけど、なんか表面的で薄っぺらくて全然心に響かないんだよね。本当に人の目を気にしてない人って、社会的に見たら「変わった人、異質なもの」って思われてるはずで、あえて周りに自分が異質である事を喧伝する理由が見つからない。結局は社会の中の標準に属していながら、そのレールから外れないギリギリでの、ポーズでしかない気がする。そう周りに言う事で「私に社会の標準を当てはめないで」っていう抵抗でしかない気がして、逆に社会の標準、評価にどっぷりと使っている感さえある。

「人の評価を気にしない」こう書くとすごい薄っぺらい使い古された表現だけど、海外生活の時みたいなしがらみのない生活って考えるとしっくりくる。そうした生活を手に入れるには、やっぱり海外で暮らすのが確実だとは思うけど、現実的にはかなりの蓄え、もしくは海外で稼ぐ能力が無ければ難しいと思う。