自分のためには生きられない

生きるのは辛い事、仕事もしなければならないし、外に出て他人と関われば傷つけられる、退屈さを紛らわせなくてはいけないし、過去の記憶や将来への不安とも向き合わなくてはいけない。

 

自分のためだけに生きる目的なんか見出せない。もしも本当にこの世に一切のしがらみがなく生まれていたら、生きることよりも死ぬことの方が楽で救いを感じる。

 

誰かのために生きると言う人生からの逃げ道が欲しい。

おしゃれは足元からとか、ホテルマンはお客さんの足元を見てるとか、靴がその人の社会的立場や経済状況のパラメーターみたいな話って聞く。

 

確かにボロボロで見るからに不潔な靴を履いている人の印象が良いって事はない。

 

でも、一方で綺麗な靴を履いている人=金持ちだったり、人格的に優れているっていうロジックが腑に落ちない部分もある。

 

今の時代、靴なんていつでもいくらでも買える(お金がある程度あれば)し、表面上の綺麗さなんていくらでも取り繕える。どんな靴を履けば良いのかだって情報が溢れてる。

 

大事なのは手入れのほうなのかもしれない。

 

人間を動物として見た時に、不潔になりやすい場所って、頭皮や口元、爪や髪が思いつく。そして足元は普段隠れているから分かりづらいけれど一番不潔になりやすいと思う。常に地面に接していて必ず汚れる場所だし、汗をかくのに逃げる場所がない。他人の家に行って玄関に靴が綺麗に並んでいても、物として不潔感を感じるのはそのせいだと思う。

 

どんな清潔な人でも、どんなに綺麗な場所で過ごしていても、絶対に汚くなるのが足元。だから、その部分を「継続的に、常に」清潔に保てている(側から見て清潔感がある)事が重要なのかもしれない。

 

ただ、やはり物が手に入りやすいこの時代、スニーカーのような「使い捨て」前提の靴は見た目の綺麗、汚いでは履いている人を推し量るのは無理だと思う。

 

革靴はまだ人となりが少し出ると思う。革靴って基本的にメンテナンスが必須で、劣化しているかどうかが見た目に現れるから。ただ、買ったばかりの靴や、履く頻度が低いと「継続して手入れをしているか」と言う目を向けるべき部分は分かりにくい。

 

何年も履き込んでいるにも関わらずよく手入れされていて、清潔感がある靴を履いている人。くらいしか靴からその人自身の印象が良くなることってないと思う。

 

別に10万20万の高級革靴を買う必要はなくて、3万5万辺りでも、きちんとした革靴はある。メンテナンスが必須の革靴だから、買う時にだれだけ金を出したかよりも、どれだけキチンと手入れできているかの方が重要。

 

そうなると、靴で人を見抜くってやっぱり時代遅れだと思う。

 

 

ミニマリスト

10年以上前か、断捨離とかが流行ってYouTubeとかでも部屋に何にも置かないみたいな人をよく見かけた。

 

あの時って、ちょうど電子マネーとかも本格的に普及し出して、サブスクみたいな物が流行り出した時だと思う。物を所有するのではなくて、必要な時に必要なだけ「サービス」として利用するのが賢くて新しいライフスタイルみたいな感じ。

 

そのライフスタイルを後押ししたのは、その当時すでに確立していたファストファッションやネット通販でモノが手軽に簡単に買える環境だと思う。

 

簡単に手軽に買ったモノで溢れた部屋をリセットして、「今の自分」に本当にフィットした「厳選されたモノだけで満たされた」生活に作り替えたい欲求。

 

そういうものが合わさって断捨離や物を持たない生活がもてはやされた気がする。

 

で、断捨離をしてみても、結局快適に暮らすには物を買い続ける、捨て続ける事が必要だと気づく。

 

物が無いのは不安だし満たされない(特に備えという意味で)。物を買い続ければ、最初は必要だと思っていても、不要になったものはどんどん溜まってくるから定期的に選抜して捨てる。そうしてバランスをとり続けるしかないと思う。

 

ゴミ屋敷を作る人の心理って結構興味深い物があると思う。

 

美術館の様な綺麗な部屋、ある意味で張り詰めた空間よりも、少しゴチャついた家の方が落ち着くっていう感覚はあると思う。それがゴミ屋敷の様に一線を越えるには色々な状況があって、ゴミ屋敷の状況に何らかのメリットや効果があるからこそ、他人から見るとデメリットしかない様に見える不合理な環境を自分で作り上げるのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京

東京に出てきてから何年経つだろう。東京へは仕事を探してたどり着いただけで、学生時代を東京で過ごしたわけではないので、地縁も友達も思い出もほとんどない。仕事の記憶の中で、細切れの記憶が数箇所にあるだけ。それも別に良い思い出ではないし、どちらかというと心が締め付けられるような嫌な思い出のある場所か、単なる情報として知っている場所があるだけ。

 

安心して気を緩められる、本当の意味でくつろげる場所なんて一つもない。もちろん賃貸の家の中では寝たり、食事をしたりの休憩はできるけれど、外で疲れたり傷つけられたりした心を完全に癒してリラックスできる、切り離された場所がない。

 

結局、何年住んでも地に足がついた訳ではなくてフワフワと放浪しているような気持ち。特に思い入れのある場所や人も無いし、宇宙船の中にいて東京という場所をフワフワと浮遊しているような感覚。

 

ひと所に落ち着いて、第二の故郷と呼べるような安心感だったり、人間関係を作りたいとは思うけれど、結局何一つ確かな物を築き上げられてないから、人の出入りの多いこの場所で、いつまで経っても一時的な訪問者でしか居られない。

 

家が欲しい理由はやっぱり、この縁もゆかりもない東京でひとつの場所に根を下ろしたいという気持ちがあるからだと思う。何にも思い入れやゆかりのない場所で、自分の場所と呼べる、拠り所となる陣地が欲しい。

 

結局、賃貸じゃあ人の流れの激しいこの土地に住み着いた、根を下ろしたって思えない。

 

〇〇駅に家を買ってそこに住んでる。って誰かに言いたいし、自分自身でも自信を持ってそこの土地の人だって思えるようになりたい。

 

結局、いつまで経っても「他所から来た異邦人」でしかない。

 

仕事と孤独

人に頼られることで自分の役割みたいな物を他人の中に見出す。それによって1人で生きていく、1人で自分自身に向き合う重圧から逃げ出すことができる。依存する側、依存される側の共依存

 

では何で仕事をする上で孤独で独立した自分が必要なのか。簡単に言えば目標が変わるからだと思う。

 

1人で仕事をしていたら「仕事の中における自分の理想の実現」が最終目標であって、そこには自分自身を変化させてより理想の自分に変わりたいという考えがあると思う。

 

一方で、仕事が「他者から依存される自分」に与えられた役割を果たす為に存在する場合、仕事はあくまでその役割を満たせればいいわけで、端的に言えばクビにならずに安定した給料をもらい続ける事が目標になる。

 

仕事が個人の目標を実現する為に存在している場合は常に変化や向上心みたいなものが働くけれど、他者からの期待を満たす事が目的となれば安定を望む為に現状を維持しようとする力が働く。

 

変化と安定。これはどちらが良いって簡単な判断派出来ないけれど、どちらも極端にならば悪い結果を生むことは確実だと思う。

 

変化ばかりでは毎日が戦いのような日々で変化と引き換えに失うものもある。

 

安定ばかりでは自分の立場や、保守的な考え方に囚われて、一見平和に見えても仕事の質が落ちて組織としては腐っていくと思う。

その後

実家問題は結局毎月いくらか援助することで一旦沈静化。

やっぱり、その場で自分の意見や反論をしないで距離を置くのが正解だった。

 

お金出すのは、自分の生活に影響のない範囲で受け入れればそこまでストレスにはならなかった。

 

それよりも驚いたのが、例え微々たる額でも「誰かのために働いている」って感覚が逆に仕事や生きることに気楽さをもたらしたこと。

 

今まで、家族を持って養ってる人って、1人で生きる事プラスアルファの重荷を背負ってるって勘違いしていた。

 

でも、真逆だった。1人で自分のために生きるのではなく誰かのために働くって、自分の人生の重荷を誰かに転嫁してるって事だった。〇〇のために稼ぐとか、〇〇の為に我慢するって思えば目の前の現実に面と向かって対峙しなくて済むし、真面目に考える事から「正当な理由をつけて逃げ出せる」。

 

よく考えたらそりゃそうだよ。20代でみんなギラギラして上を目指してた頃からだんだん周りが保守的になって、言い方は悪いけど手を抜いて生き出した。それが大人になるみたいに納得してたけど、結局自分自身の人生の重みみたいな物を、他人の為に働くっていう、ある意味「口実」を見つけたんだから。他人に頼られる事で自分の役割や存在を簡素化する、ある意味で関係性への依存。

 

独立した個人という存在で居続けるのは孤独で厳しい事だから、みんなそうやって生きてる。自分もそういうふうに楽して行きたい気持ちは正直あるし、立場が逆ならそうして生きていたと思う。

 

孤独であることの強みみたいなことってなんなんだろう。

 

どちらが正解かわからない。

 

お金お金お金

お金の話が絡むと皆んな途端に感情的になる。それが終わりのない話になれば尚更。

 

どうやって自分の感情をコントロールするのか、平穏無事な毎日を送れるのかが大切だと思う。

 

1人が感情を大爆発させると、その負の感情が周りに伝染する。

 

イライラ、キリキリ、していたら運を逃す気がする。

 

お金、払わなければいけないのは仕方ない。諦めなければいけない、、というか考え方を変えて援助する事を受け入れなければならない。

 

心穏やかに。未来が少しでもよくなることを祈って。